yuitohi

公開交換日記 ユイ⇄ヒ

素直

旅のおわりにひとりでスイス、バーゼルへ。暇なのであれこれ書きつけてしまう。何通も送りつけてしまうかもしれないけど、気にしないでひーちゃんは自分のペースで送ってくれ。

 

バーゼルは冷たい街、という印象だ。自分の寂しさや曇り空の分を差し引いて考えよう、と思うものの、どの建物もつん、としているように見える。丁寧に塗られた漆喰は無感情で、色とりどりの壁もある程度のトーンに抑えられているので、美的ではあるけれど、温度を感じない。世界的に有名な現代建築家の建物がそこかしこにある故か、古い建物の存在感が薄く感じられる。スイスの現代建築の魅力は、単純に言い過ぎとは思うけれど、冷静さ、にあると思うが、実際その前に立ってみると、ぐっと迫ってくるものを感じない。新旧の美が入り混じり、静かな街ができている。

ただ、あるビルを見て、去りながらふと振り返るとそれは曇り空に溶けるようで、ああ、こういう空だからできた建物なんだな、とどこか納得した。

 

さみしいけれど、さみしいに負けないでいよう、と、あまり感情を深掘りしないようにして夕飯を食べていたとき、突然幼年時代のうつくしい記憶が蘇ってきて、涙がぼろぼろこぼれてきた。え、ここで?とびっくりしたけれど、止まらない。父の仕事の関係で10日ほど、幼稚園を休んで行った家族旅行。具体的な記憶は多くない。ただ、愛されていて、甘やかされていて、それが当たり前で、なんの心配もなくて、大好きな人たちと大好きな季節、美しい街で過ごした日々。そういうことが、光のきらめきと共に、最も美しい記憶として保存されているのだった。普段から愛されて甘やかされていただろうし、今だっていくら反抗しようとそうなのだけど、日常≒学校というものがずっと苦しい私には、この日々は特別であり続けている。

じゃあどうしてまだ学校にいるんだろう。

 

ベッドに腰掛けて小さな白ワインをちびちび飲む。このくらいいいだろう、と夜のお供にスーパーで買ったもの。そしてラジオを聴いて日本茶を飲む。日本語を話さなくなると急に日本食が恋しくなる不思議。言葉というものの持つ安心感、いや、友人のだろう。友人に殻という殻をぜんぶ剥がされて、自分の寂しがりに直面してしまった。いくら強がって、ひとりでも楽しいでーす、みたいな顔をしていても、甘えん坊の寂しがりなのだ。それならそれで良い、悪いことじゃないから体温を求めてゆけばいい、と思ったがゆえに今さみしいのはだから悪いことじゃない。きっと誰かを求めることができる。

 

先週も楽しかったけど駄目な週だった。友人が疲れてぐったりしていてもそばにいることしかできなくて、手を出しては失敗して、逆に気を遣わせて、自分のなにもなさ、をますます感じた。いま、痛感した、と書こうとして、こんな言葉っつらの痛みではだめ、と書き直した。ふたつ前の日記でわたしに何ができるのか、と書いたけど、今の状態では「何もない」が答えだった。何もないとどうなるのかを知った。

いつも人の様子を伺ってしまう。怒っているのかな、もしかして自分のせいなのではないか、と、びくびくして息を潜めてしまうのは、家でも同じだ。人の気分に自動的に同調する。あかるくしてみても無理にしているのが伝わる。なんかやらかした?と思うとすぐにパニックになってしまう。どうしよう、失敗した、嫌われる、どうしたらよかったんだろう、って自分のなかで反省して考え込むからよくないんだろう。「できない、どうしよう」「ちょっと待って」「お願いしてもいい?」「さみしいから行かないでほしいけど行ってらっしゃい」と、素直に言えばよかったのだ、きっと。怒られないようにしていることで怒られているなんてばかみたいだ。素直になること、人に頼ること。ひーちゃんの日記とも少しシンクロしているようで、面白いなって思った。

反省じゃなくて解決、過去じゃなくて未来。

落ち込んでいても日本にいるときの、自分をフォークでぐさぐさ刺したり、紙になった自分をぐしゃぐしゃにする幻覚は見えてこないから、ポジティブな悩みだと思う。また旅に出たことも、さみしいけれど、いいことなんだと思う。

 

スイスの人々は、静かで、余計な干渉をしない。マイペース。冷たいのではなくて、落ち着いて自分を持っている。建物も街もそう、学ぶことは多いはず。

幼年時代のたったひとつの神聖な思い出こそ、最良の教育にほかならない」という、ドストエフスキーの言葉を思い出している。だからきっと、だいじょうぶ。

 

ユイ