yuitohi

公開交換日記 ユイ⇄ヒ

lovable

目まぐるしい日々が終わって髪を切った。刈り上げを秋風がくすぐる。

したことないことをしてみたくて髪を伸ばして、でもやっぱり極端に短い髪が自分らしいなと落ち着く。

 

仕事はおもしろかったけど、気を張ってたからだろうか、仕事じゃない時も体が殻に包まれている感じ。体の外側が薄い石膏になってて、中に流動的な柔らかい自分があるような感じ。

ゆるゆるの自分が閉じこもってるから、感情の揺れが大きくはなくて(でも小さい揺れは全然あるし、自分の中身はやっぱり変わってない)、良くも悪くも。

苦しさがどこかにあるような気がして、石膏をパリーンって割ったらそれも一緒に出てきそうで少し怖い。そういうことを考えてたら昔かけてもらった言葉がふっと思い出された、相手にとっては軽い一言だったろうけど、心の十字架に彫り込んでいる、お守りの言葉。やっぱり不安なのかもしれない。心が見えない方が怖い。

 

急に時間ができたように感じて、思い出したようにこの日記を開いて書いてみてる。(このまま放置しようかなともちょっと思ったけど…ひとりごとみたいに連絡してみたかった、照れ…)ひーちゃんは元気かな。ちょいちょい会ってるけど、全然ゆっくりは喋れてないね。

書いてなかったここしばらくのことはあまり思い出せなくて、日記ってやっぱりいいね。

毎日ごはんをつくるとかだけが日々を大事にすることじゃなくて、花や光が、人間や生き物が綺麗だなあと感じたり、その感情を掬い上げることのほうが大事なんだよなあと思う。

 

ユイ

溶けそうな労り

しみしみした気持ちでしみしみした曲ばかり生産してしみしみした大根ばかり煮ていた近頃のしみしみの中からちょっとずつ溢れたいいしみしみを集めて、いまにも溶けそうな形になんとか収まった?さっきのこと。明日振り返ったらもう溶けてるかもしれない、けど、とりあえず、少なくとも、自分の励ましにはなったから良しとしてみる。溶けた大根はおいしいし。大丈夫と思いたい。

毎日思っていても着手しなければ時はすぎ、いつのまにか半年も、この日記を書くのに経ってしまって、ごめんね。でもこれといって変化なくそのままの私みたい。周りもそんなに変わらない。

去年の今頃のことはよく覚えていて、春、晴れているのがかなしかった。その感覚は心に染み付いてしまったのか、今年もまた、同じ場所から同じ白いビルの壁面、乱反射する光を眺めては、ぼんやり悲しくもなる。出来事を思い返すと、しんどいときもあったけど、なんとか大きな変化なくやってこれたことを不思議に思う。


なぞに詰められた13連勤が終わって、5月の後半は焦ることなく過ごせそうなかんじ。川で石を拾いたいし、具がもりもりのサンドイッチを作って緑の下、公園で頬張りたい。冷たい水を素足で蹴って、重いか軽いか確かめたい。浮かぶ鳥や風で揺れる木を見て、指についた摘んだ花の香りをかいで、それらがどこからやって来て戻っていくのか、考えて、音楽を作りたい。

この間、ある人は、風も音も形から生まれると思うと言っていた。

私は、もう全部すでに生まれていて、ぐるぐる回っているだけなのかもしれない、と言った。


お酒は前ほどあまりいらなくなって(飲むと決めたら飲んじゃうけど。癖。)自然と関わるのが楽しくなってきた。今もベランダから積んできたアロマティカスをお湯に浮かべて飲んでいる。一時の休肝でなければいいな。


ゆいこは最近仕事が忙しそうな噂をきくよ、体には気をつけてね。おいしいごはんを食べて、前に見せてくれたみたいなすてきな絵を描いて。また見せてくれたらうれしいなー。ゆいこの自分への労り方や、はたらきが私は好きだよ。

 

 

嘘のない

時があいてしまい、酔っ払わないと文が書けない。職場の近くにタップバーができてしまったの、、今度一緒に行こうね。!

 


すこし前。泣きそうなお別れの日があって、その日が来たらもう私は終わりだ、というくらい極端に怖れていて、その日を思うだけで涙が出てしまっていた、この半年くらい。でもそのためのお手紙のため、ポストカードの絵を描いたら、なんだかこころの整理がついた、と言うのだろうか。楽しく見送ることができた。

自分の中の嘘のない結晶を外に出し、かたちにすること、それには自分の予想以上の力があるのだなと思った。自分の中に知らない自分がいるというか、知っていても、形にするまで認識していないのか、他の人にもわかる形にしてようやく、納得できるのか。


そうやって日々、描いたり、書いたり、料理して食べたり、編んだり、して、いる。

人とつながれないことを、最寄駅から職場へ歩いているときや、髪を乾かしているとき、ぶわっと悲しいこととして思ってしまうときもあるけど。

歯車を回すように、努力して、自分で在るようにしている。

 


でも友だちとか、すてきな人たちが周りに、少ないけど、すっごくすてきな、すきな人たちが、いて、しあわせだなー!と思ったりもする。酔っ払っているからなんだけど、だとわかってるんだけど、でもそういう気持ちも記録していたい。なー。

 

すごく寂しいのも、ひとりでいると気楽で楽しいのも、誰かに会うと嬉しいのも、全部同じ温度で本当だ。


星と屑

仕事終わり用を済ませたあと、外の気温がちょうど気持ち良くてもう少し外にいたいなと思いいつもの公園のベンチで煙草を吸っている。新宿方面の高いビルにはたくさんの赤い丸い光が点滅、そのせいかあちら側の雲は赤くて怪しい。どこかの街で1番高いビルが何年後かにできますというニュースを見た。高いものが好きな人間。高所恐怖症の人間、自分。それぞれ特徴がある、でも開発として壊されていく風景はなかなか切ないし明るすぎる夜、星は見えにくい。


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数日前、1泊2日だけだが山に囲まれた山の中の村へ小さな旅に出ていた。雨上がりの森林の匂いと夏が終わる川の冷たさ、早朝の風の肌触りに心が沸き、呼吸の深さを普段以上に感じた体は煙草も酒もあまり必要としなく、宿の食事も相まって心身共に浄化されて帰ってきた感じがする。


空は高いのに近い、いつもより長く上を向きながら歩いていたと思う。自然の中うれしくて力が漲る反面、川を歩き滝に打たれたり山の中を歩いていると、純粋な気持ちよさと同じくらいの怖さも感じ、人間以外の圧倒的な力強さに、私たち勝手にここでこうしてごめんなさいみたいな気持ちから、人間って本当やだ、という謎の追い詰め方を自分にして、いっとき凄まじい感情の渦に絡まってしまった。

人ではないもの、自然と対話する、例えば石をも自分と同等なものとして扱う心を持て、みたいな文章を近頃読んでいたけれど、対等というか全然及びません...というかそう考えることはそもそも別々に考えてしまっているということじゃん...とぐるぐるな収集つく前の終わりない残念な考え...。をひたすら山を降る歩みの途中道考えていて、それを一緒に歩いていたまりもに伝えると、私はみんな仲間だと感じました!と即返事が返ってきて、その素直さと素朴さに、驚いた。驚きより尊敬か。私は私で得てしまった知識や考えることがあるけれど、なにもなしに今目の前のここを感じられることができたらな。だってここにいるし。そう。そうなれば。最後山を降りきるときにみた、穏やかに溢れ暮れてゆく陽には、私たちを見送ってくれている...!と素直に感じた心もあって。そんな素直な心をしっかり素直に受け止めていきたいのだけど。だけど。だけど...。雑念払拭、雑念払拭...。


食事についても、宿坊での環境と献立を体験して変えて行きたいと思い、帰ってきてからの数日意識してみている。普段はなんらかをしながら片手間の、空腹を満たすだけの一皿の丼を食べている...けれど、宿では沈黙の中、外と内の環境音と自分の咀嚼音に耳を傾けひたすら食事と向き合う。1時間以上かけて、たくさんの小鉢に並べられた少量の山菜や魚などを少しずつ食べていく行為。それぞれの感覚がちゃんと分かれていることに気づく。混ざりすぎていてわからなくなってしまっていることが大半なんじゃないだろうか。帰った自宅のそばでも鈴虫は騒がしくないているし、茹でた小松菜はしっかり味がするものだった。

 


気づくことは多いけれどその実践を長く続けていくことが私は苦手なんだとわかってるから、気づいたことに気づき続けてその果ての日常に納得していけたら。変わっていく未来や在り方がきっとあるのかもしれない。小さい中で小さく悲しんで小さく落ち込んで小さく元気を出して小さく進んで行く毎日、小さな自分。それを悲観的に捉えることがとても傲慢で、当たり前にこの世界に小さな自分を存在させていくことが、とても愛おしいことなんじゃないか。

 

いろいろ感じすぎて抜粋してもよくわからない文章になってしまった...けどそんなことを未だぐるぐる考え続けている夜で。

名残惜しい良き旅であったことは確かだ!たのしかった!!!と一言で言える清さが欲しい。とか、また、言う...。

払拭よ。

 

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ごたごた頭の中、まとまりな記。移り変わる街や季節、人と人。

一つの願いは、それぞれの中で、ひとつ輝いて見える星がありますように。

秋の始まりに。

 

 

八月のあと

ほんのりとすずしくなってぶわぶわ咲いてる百日紅。ひと段落の週末は昼からお酒を飲んでしまう。 久しぶりの友達に会ってだらだら歩いたり喋ったり、本をおすすめしあったり作った絵や映像を見せっこして楽しかった…いつでもうまく喋れるわけではないから人と会うのが億劫になるけれど、やっぱり好きな人と会えるのは(一対一なら…)うれしいな。すきな人。ちょっとしたことだけでうれしい、偶然会えることも、突然の連絡も、そばにいられること、そこにしかない会話や、できることをしてもらいあうことも。すきな人を増やしていけたらいいなと思うけど、悲しくもままならないから、自分と相手の間に作品があるのはいいなと思う。ひーちゃんの音楽がいろんな人に届いているの、本当にすてきだね。

 

うまく動かない機械をあやつって、動かし方を学んでいるようなかんじ。入力を学んで間違えなければ正しい出力? 毎日飲む水で体のなかがいれかわるみたいな、べつにみんな、なんでもない、土とか枝とか、石みたいな気持ち。

 

お祭りのような八月最後の一週間。ありがとうーでいっぱいでいとおしい。忙しすぎてびゅんっと過ぎ去ってしまいそうだったけど、一番すきな八月を大切に過ごせてよかったな。会えてうれしいって気持ちを大切にしていたいよ。もらった浴衣は柔らかくて、手のひらに、記憶の中の海が見える。

 

ユイ

ぐにゃる記

 


求めていたお日様がいやになるほどに暑く晴れの日、晴れというかもう災害級で火傷級の暑さがつづいていたけれど、今日は仕事終わり帰りの電車駅について階段を上がれば突然の雷雨。やべ、と思い走った、が、走る速度は遅すぎて当然びしょ濡れ長い髪から水が滴り家に着く。薬局で試したマスカラが流れ落ち、白いマスクに青い模様がついていた。それはきれいなんですけど、わたしほとんど天気予報を見ることのない生活で、今日も朝に布団を干してそのままにしていたのだった。タバコが切れてんだよなーくそーと思いながら走って、布団を取り込み即シャワーを浴びて、めんどくさーと言いながら近所のコンビニにタバコを買いに出掛けた。町からは迫害されているし、そろそろ禁煙をしたい。制御の欲望。吸ったり吐いたりくらい好きにさせてくれと思う。

 


変わらない生活を送りながら、なぜだかめちゃくちゃになっていく自宅。部屋の汚さや飲酒量、洗濯物と洗い物の溜まり具合に心は反映されるとよくきくが、本当にそれはそうだと思う。表現の一部なのか?と独り言を呟くほどごく自然に荒れる。今は乱れている。だいぶ。片付ける方が特別なことみたいに、愛したり愛されたりは特別だよなぁ、とよくわからない濁った思想に気を凝らして。愛ってなんなんですか?おかしいことばかりやってきてしまったし未だにそれを続けている私がわかるはずもないけれど。一気に片付けるのは絶対に無理だとわかっているのにやろうとする。誰にも何も伝えないわたしの中身は続いてもいるし変わってもいるという過程をいつも伝えられない、結果の事後報告をする癖。わたしはわたしを抱きしめる、抱きしめられるわたしはわたしに、わたしわたし、わたしばかり気持ち悪いわたし。ぐにゃる頭の自己中思想に嫌悪感しかない自尊心。矛盾だらけ。

 


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新しいCDを出したんだけど、前作よりも届いている様子が見えてとてもうれしくて、やっていてよかったなと素直に思う。生活とか恋とか愛とか気持ちとか大事に思っているふうなことも、手を離してからのここには関係なくて、清々しいというのかな、なんかいい場所を見つけたな。音楽とそこからなりたってゆく関係、ひろがっていく世界は純粋に楽しくて感動的。知らない人のおうちで、通っていたレコード屋さんで自分の声が鳴っているって、夢みたいな気がする。

 


これから世の中も世界も自分も人類も生態系も政治もさ、全部どうなって行くのか、わからないけど、手から手へ、手紙をしたためように、大事なものを大事な人へ渡していくことは続けていきたいな。この日記も。ぐにゃる頭からできている、音楽と日記だけはわたしがわたしにいいよと思えるところ。

 

 

生きてる? 生きてる。生きている。る。

 

たいしたことをしていなくても、すぐに疲れてしまうし、悲しくなってしまう。なんなんだろう。

自分がなにかできるとか、人の役に立てるとか、そう思うこと自体がおこがましいというか、傲慢の証拠のよう。自分に力があると思ってるということなのだから。なにかしてあげたい、しなきゃ、ってあわあわおたおたしてる間に、さらりと解決してるのだ、みんなわたしよりずっと大人なのだから。悲しい。

自分の前で線が引かれることを、今もずっと怖れている。

 

いましたいことをしてみる、というのが一番いいと思う。細かな日記をここ4ヶ月つけていて、読み返すとすごく面白いけど、今はそれよりしたいことがあるから、休む。ひーちゃんのやってる、毎日写真とるのもやってみたいな。髪に色を入れてみたくて、入れた。うーん? とおもったけど、だんだんいいと思えてきた。やっぱ違うと思ったら変えればいい。伸ばしている髪は、自分らしくはないと思う、だけど、もうすこし、そのままにしておいてみる。

 

良さ、や正しさ、に惑うことのないように。

 

ユイ