yuitohi

公開交換日記 ユイ⇄ヒ

蛍光色が点滅

いやな湿気の日々が続くね。外気が皮膚と同化してどこが境目なのかわからなくなる。くっついているようで触れていない、存在自体が曖昧になる。そして空気を吸っているのか吐いているのか、その必要があるのかすらよくわからないどんよりの中。混同している。

混同はよくない。外気と皮膚も、現実とバーチャルも、ひとりと孤独も、消費することと消費されることも、混同してはだめだ。

ただ自分を発する、それに尽きると私も本当に思う。

 


ずいぶん前におすすめしたことを私はずいぶん前に忘れてしまったらしく、その本を調べてみたら、冒頭、インタビュアーに問われた問いの作者の回答が〝そうでしたっけ。忘れていました。〟で、笑ってしまった。そしてなんとなく訳がわかった。

本を読む、というか、文字に目を這わせる行為は気持ちを落ち着かせてくれる。お腹すいたこと気づいて良かった、夏のうどんはうまいから。おいしいもの食べ涙を拭いて。

(この前ね、大事な人の大事な人の話をしていたとき、例えばお前にとってのゆいこみたいなことだよ、と言われたの。私は超しっくりきたし超しっくりきてくれたらいいな、と思うけど、他の人に私たちの関係性がそう映っていることがうれしかった。当たり前なんだけど、うれしくて伝えたかった。だから泣かないで。

だから、というには私は頼りないけどな。)


最近わたしは石川初さんの『思考としてのランドスケープ 地上学への誘い──歩くこと、見つけること、育てること』という本を空き時間に手にとってパラパラさせ(てもらっ)ているよ。

〝「地上」とはどこか。地上は具体的で固有である。地上は私が歩くところであり、地図が描く対象であり、地図が描くものと私が見聞きするものを結びつける場所である。私は地上を歩きながらいろいろなものを見つけて拾い集め、持ち帰って育てている。〟


この前ほろ酔いの帰り道、履いていたビーサンを手に取り裸足で小走り帰ったことを思い出し、この言葉に実感した。そこはたしかに接触していたと思った。ビーサンもコンクリートもインターネットも見てない地上波も邪魔臭いけれど、たしかに一部をくっつけ地上を歩いているんだと思う。私たちは。全体重をひんやりと。不安も絶望もこの接触は妨げられない。ここで、私は足に触れている地上から感じて考えて掬って育てて持っていないと。心まで機械化されるのはごめんだとどれくらいの人が本気で考えているんだろう。機械化されていくことにも気付かず、絶望的な未来にそのまま流されることをどれくらいの人が無意識のうちに許しているんだろう。


今、話したいことはいろいろとあるのだけれど、書きたいことはないのかもしれない。書くまでに至らないというべきか。とにかく、想像上の最悪の場面にならないように祈るばかり。この先に希望があると信じさせてくれる音楽を聴いて眠る。

あらゆる芸術は希望だ。だから、決して終わることはないと信じられることだけが今の希望かもしれない。