yuitohi

公開交換日記 ユイ⇄ヒ

現場より、些末事々

今日で3日、あと2日。ずっとあわあわ、大声を出している。肩と一緒に心臓も3センチくらい上がっている。たくさんの人がいてそれぞれに作業をし、全体が作られてゆく現場感を、今日ようやく楽しめるようになってきた。

 

「この文章の和訳はあなたがやったの?」と聞かれビクッとし、この頼りなさでも信頼を得なければならないので「イエス、アイアムノットグッドアットスピーキング、バットアイキャンリードアンドライト!!」と言い切る。必死。ていうかやっぱり英語が喋れなくて、はあ、と思う。あっあっえっとえっと、とめちゃくちゃ言ってしまうし、はっきり話そうと思うとまったきカタカナ英語になってしまう。とは言えギリギリ伝わっている。

 

昼には仕事を頼んだ方が下見にいらして案内したりもして、色々と緊張した。ただ、責任を感じるだけで、実際には何もできないのだよなあ。でも、普通するべきサポートをできていなかったりするのじゃないか、など不安。資料を渡したり案内をしたり、で十分なのだろうか。まあみんなわたしなどより百戦錬磨なので、自分があてにされていると考えることがそもそも間違いである。

成り行きまかせで申し訳ないです、と言ったら「どうとでもできるし、純粋に楽しみです」と言ってもらえて、ものすごく安心した。

 

そこ忘れる!?ということを忘れたりもしていて怖い。実際なくても済むことだったけど、なきゃやばいことも忘れたり、うっかり抜かしてるんじゃないかと思えてくる。

細かいことをただ書き起こしてしまう。日記を心の整理に使っている。書くことで、頭の中の不安と実際に怒ったこととを同じように見て、気持ちをフラットにできる。そして自分は「人にがっかりされる」ことを怖れて不安になるのだなあと気づく。

金曜のイベントに何を着ようか考えるのが息抜き。空間に合わせて最近買った緑のワンピースにしようかな、いややりすぎかな、それとも涼しそうだから一張羅を着られるかもしれないなど。

 

今日は並行して別件のテキストを作る仕事をしていた。現場を手伝ってくれている人に、その人が書いた分の修正をお願いしたら、「後から見て、自分で何言ってんだろう、と思ってて」と話すので、今だったら直せますよー、と言って直しをもらうと「また後から見ると後悔するんだろうな」と笑っていた。別の人は思いっきり締切が過ぎているのに三回くらい修正を送ってきて、最後ようやく決められたようで「これでバッチリです!」と書いてあって面白かった。わたしは自分が優柔不断でなかなか決められずいつもテキストを最後まで何度も直しているのを気にしていたけど、みんなそうなんだ、と思って安心した。「そういうもんですよねえ」とこたえた。

 

 

そんなような感じで今、みんなでやっていることの本質は実は、境界をあやふやにすること、である。作業をしながら、「境界を溶かす、ということは、非常に今日的でもあり、かつ普遍的(近代が例外なだけ)なことなのではないか?」というメモを頭に書き込んだ。

境界が溶かされてゆき、それぞれがそれぞれの場所へ自由に置かれてゆく様は、案内係としては少し不安でもあるが、爽快である。ものが生き生きとし始め、空間に気持ち良い風が吹き始める。

 

境界は不安から作られるものなのかもしれない。どう立っていいかわからない時の拠り所として。境界を作らずにいられるなら、自由であるということ。そのようにあれたら。

 

ユイ